【温泉土産】

 一夜湯治や七湯廻りの湯治客で箱根七湯がにぎわいはじめると、これらの人々を相手とした温泉土産の生産も盛んになっていく。その代表的な産物が後に箱根細工と呼ばれるようになった木地細工である。
 箱根の木地細工は、大別すると、盆・椀・玩具など挽物細工と、箪笥・小箱などの指物細工に分けられるが、江戸末期まで大半が挽物細工で占められていた。

 木地細工の発生の地は東海道筋の畑宿で、戦国時代の弘治二年(一五五六)畑宿の住人は諸役免許、分国中合器(挽物)商売自由を要求して退転するが(相州古文書)、この史料により畑宿ではすでにこの時代かなりの挽物生産が行われていたことがわかる。
 畑宿で作られていた挽物細工は、江戸時代になり箱根八里の街道が整備され、往還する旅人が増加するにつれ、街道土産として定着、挽物細工に従事する村も沿道の須雲川、湯本茶屋、湯本へと広がっていった。やがてこの挽物生産は湯治客の増加に伴い、塔之沢、大平台、底倉、宮城野と箱根七湯の村にも及んでいった。

 箱根七湯や箱根八里の沿道で売られた挽物細工は、ぜん盆、香合、煙合、円盆、児童の玩具(風土記稿)などさまざまな種類に及んでいるが、箱根挽物細工の特徴が最もあるものは挽物玩具であろう。享和元年(一八〇一)の「改元紀行」や文化八年(一八一一)の「七湯の枝折」には、小さな箱の中に入った芥子人形を紹介しており、挽物の豆人形が人々に人気のあったことを伝えている。また先述の「温泉土産箱根草」は、新工夫の細工物として組子細工のたまごが話題になっている。
 この組子玩具は、湯本茶屋の木地師亀吉によって創始されたもので、信州松代生まれの渡り職人であった亀吉がこの玩具を作るヒントとなったのは、古くから山村などで使われてきた同じ構造を持つ「入れ子べんとう」ではなかったかと思われる。
 そのほか職人たちの創意で作られていった挽物玩具は比較的小ぶりの物が多く、長い道中を持ち帰るのには都合のよい土産物であった。

 今日箱根細工の代表的工芸技法に目され、最近国の伝統産業品として指定をうけた寄木細工も、幕末には、畑宿で作られるようになった。寄木細工の技法は正倉院宝物木画箱や江戸時代初期の輸出漆器などにその源流を見出すことができるが、江戸後期には静岡の駿河細工として土着した。箱根の寄木細工はこの駿河細工から学んだもので、幕末畑宿の石川仁兵衛が駿府でこの技法を学び、畑宿に導入した。その年代は確かではないが、筆者は少なくとも嘉永年間(一八四八~五三)には畑宿で寄木細工が作られるようになったと推定している(岩崎宗純・箱根細工における工芸技法の展開・郷土神奈川8)。

 温泉土産として特徴のあるものに「湯の花」がある。鉱泉から生ずる沈殿物を日に乾燥させてたもので、芦之湯で多く製せられていた(七湯の枝折)。湿瘡によいとされ、街道筋の湯本茶屋の店先などでも多く売られていた。そのほか同じ湯の花であるが、底倉の珪酸泉から製せられる硅華は、「箱根蛇骨」と呼ばれ、血どめ、温瘡に効くと評判であった。

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