箱根温泉 箱ぴた 箱ペディア 【七湯の案内書と紀行文】

【七湯の案内書と紀行文】

 箱根七湯へ入湯する湯治客が増加するにつれて、七湯を紹介する案内書、紀行文もつぎつぎと著されるようになった。

 七湯の案内書は、江戸中期ごろから出はじめている。そのさきがけとなったのは、元禄二年(一六八九)俳人北村季吟によって書かれた「湯もとの記」である。季吟はこの書で湯本温泉の開湯についてるる述べている。同じ元禄十三年(一七〇〇)には、塔之沢福住十左衛門が「塔沢温泉根元記」を出版している。この湯は、十左衛門が江戸三田住の僧周海の協力を得てまとめたもので、塔之沢温泉の効験、湯治の心がまえ、各湯宿のたたずまいなどが記されており、漢文体の硬質な案内書ではあるが、往時の塔之沢温泉を知る恰好の歴史資料でもある。

 寛延四年(一七五一)に刊行された「温泉名勝志」は、後藤義方が元禄五年堂ヶ島に入湯した時の紀行を中心にしたもので、文中に箱根温泉の名所が紹介してある。
 江戸後期になると十返舎一九によって「道了権現箱根権現七湯廻紀行文章」(文政五年)のように近隣の名所旧跡を訪ねながら七湯を廻る旅行案内なども刊行されるようになった。

 箱根七湯の紀行文が著されてくるのも、やはり元禄期に入ってからである。藤本由己の「塔沢紀行」(元禄十四年)、跡部良顯の「塔沢温泉行」(享保七年)、東陵医官福一逐子の「宮下紀行」(享保十四年)、清水浜臣の「箱根日記」(文化十一年)、雲州亭橘才の「東雲草」、小川泰堂の「箱根紀行」(慶応三年)などが目につく。これらの紀行文は、江戸中期から後期にかけて、箱根七湯を訪れた文人たちが残したもので、七湯湯治の様子がリアルに書かれており、歴史資料として興味深い。

 箱根を訪れる文人たちが好んで湯治するところが芦之湯であった。同所は七湯中でも最も高度地にあり、暑い江戸の夏を避けて芦之湯に遊ぶ江戸の文人たちが多かった。同地にある東光庵薬師堂は、これら文人たちの恰好の集会所で、彼らはここで碁・将棋に興じ、作詩・句会を楽しんだ。浜臣の「箱根日記」にはこの東光庵の様子がよく書かれている。

 箱根七湯を紹介した案内書・紀行文中の白眉は、文総・弄花によって作られた七湯絵巻「七湯の枝折」(文化八年)と間宮永好の「箱根七湯志」(文久元年)であろう。
 「七湯の枝折」は全一〇巻よりなる七湯の絵巻で、作者の履歴は不明であるが、この二人が七湯の各地を「一夜二夜宿りてことごとく図を模し」たものであり、七湯各湯治場の歴史、出湯の効験、湯宿の紹介、名所旧跡、産物などにも触れた本格的な七湯紹介絵巻である。この絵巻は無窮会神習本を原本とし、底倉の蔦屋本の浄写本をはじめ多くの写本が残されており、また「箱根七湯温泉図会」(弘化四年)という形で刊本としても刊行され、七湯の紹介に大きな役割を果たした。
 間宮永好の「箱根七湯志」は、七湯案内中最も学術的色彩の強いものである。本書は安政五年(一八五八)の夏、湯本福住に入湯中に脱稿し、その後補筆を加えつつ文久元年(一八六一)に完成したもので、七湯各湯治場の起源、名所旧跡の由来、温泉の効能、湯宿の紹介及び各地に残された中世文書などが確実に筆写され、紹介されている。

カテゴリー: 5.江戸時代の箱根温泉   パーマリンク
  • たびらいレンタカー