小田原―湯本―塔之沢間の道路開削が進み、人力車の通行可能な車道が整備されるようになると、更に塔之沢―大平台―宮之下に向けての車道開削が問題になった。早川渓谷沿いにあるこの道は、大水が出るとすぐに崩壊し、交通が途絶した。底倉村や大平台村の人々は、わざわざ湯坂山を山越えして湯本に下ることがしばしばあった。もちろん人力車などは通らず、富士屋ホテルをはじめ箱根の旅館に宿泊する外国人客は、籐椅子の下に竹棒を付けた四人の人夫が担ぐ「チェアー」と呼ばれる山駕籠で宿泊地に向かった。
このような状態の塔之沢―宮之下間の道路開削を計画し、指導実施したのは、宮之下富士屋ホテルの創設者山口仙之助であった。
仙之助は、明治十九年(一八八六)十一月、この計画を底倉村の有志にはかり、自分でも金一〇〇〇円を寄付し基金をつくり、更に横浜の茂木惣兵衛、西村喜三郎、小田原の川部敬直らの個人及び宮城野村共有金から資金を借入し、工事を開始した。
塔之沢から宮之下に至る開削予定道路は、幅三間(約五・四メートル)、距離一里一六町(約五・七キロ)に及んだ。工事は急峻な早川渓谷の断崖を切り崩していくため、かなりの難工事であったが、比較的順調に進み、翌二十年(一八八七)の末には完成し、湯本から塔之沢・宮之下に至る車道が生まれ、人力車が通れるようになった。
この工事のために借入した費用償却のため、仙之助らは、湯本同様通行者より道銭を徴収することにした。
徒歩者 一人に付 壱銭五厘
〃 但宮之下―大平台間は五厘
人力車 一人曳 参銭
〃 二人曳 五銭
〃 三人曳 六銭五厘
荷車 一両に付 参銭
荷馬車 一両に付 五銭
荷馬 一頭に付 参銭
かご 一挺に付 参銭
(富士屋ホテル八十年史)
この道銭の徴収がいつまで続いたか明らかではないが、総工事費一万八八二円に及ぶ大工事が民間の手により計画・完成したことは注目に値する。
【塔之沢―宮ノ下間の道路開削】
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