福沢諭吉から提言を受けた塔之沢の湯宿主たちの道路開削工事は、湯本―塔之沢―木賀間の新道開拓のための御下賜下付願という形で計画されたらしい。明治十二年(一八七九)六月、湯本・塔之沢・大平台・底倉・宮城野の関係五か村の戸長及び総代が連盟で提出した歎願書によると、東京三島三組町杉山弘窓が基金一〇〇〇円を寄付したことにより、計画が具体的となり、十一年九月開拓の願書を提出、十二年二月許可になった。一同は資金の不足を開拓金御下賜により工事資金の不足を補うべく願い出たのである(湯本福住家文書)。
この計画は、湯本から木賀に至る道路開削計画ではあるが、主目的としたのは塔之沢―湯本間の道路開削であったと推測される。なぜならすでに明治七年(一八七四)底倉―木賀間の道路開削は、宮城野村宮原新太郎の指導により湯本村福住九蔵、底倉村安藤兵冶、小田原宿今井喜重ら一九名の資金援助を得て実施されており、同年九月宮原新太郎らは政府より賞を受けているからである(神奈川県史料九)。また塔之沢―宮之下間の道路開削は、この計画とは別に後述のように宮之下の山口仙之助らによって計画実施されている。
湯本―塔之沢間の工事が明治十二年以降どのように実施されたかわからない。が、湯本福住家に明治十四年(一八八一)十一月二十七日付の「新道路確定義ニ付御届」として湯本―塔之沢間の新道絵図が蔵せられており、この年前後のことであろう。この工事は、湯坂山の切り立った断崖を削りとるという当時では大変な大工事であったため、工事は難行し、工事の責任者であった戸長の中田鴨平、総代であった一の湯の小川文右衛門の心労は大変なものであったらしい。
【湯本―塔之沢間の道路開削】
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