福沢とは別に箱根道の近代化を計画していた人がいた。足柄県令柏木忠俊である。足柄県は、旧江川太郎左衛門支配の幕領韮山県と旧小田原藩領の(相模国分)小田原県とが合併し、明治四年(一八七一)十一月にできた県で、両県を結ぶ東海道箱根八里の道路整備は必要にせまられた事業であった。
忠俊は、この事業の実施を、湯本村の名主で二宮尊徳の高弟でもあった福住正兄に相談、正兄は、依頼により箱根道の車道開削工事の具体案を作成した。その案は、板橋から箱根畑宿までの費用は、旧小田原県内で七円以上の月給を受けているものより負担させ、不足額は一般の富裕者から寄附を募る。また山中から三島までも同様な方法で資金を募り、一番困難を予想される畑宿―山中間の工事資金は、国家補助で実施するという案であった。しかし、この計画は柏木の死によって、実施されるに至らず、幻のものになった(福住正兄翁伝)。
箱根八里道の開削は実施されなかったが、湯本温泉にとっても、湯本―小田原間の車道開削は、ぜひとも実行しなければならぬ事業であった。正兄はこの計画を正兄自身が組織した湯本村の報徳結社(主として学校建設、維持を目的とした民間財団)共同社の名義で実施することにし、共同社の出資者たちに資金調達を依頼した。そして当面の資金は正兄が一時負担し、道路開削が完成した後に、人力車・荷車から一銭ずつ道銭を徴収し、償還するという方法をとることにした。
完成まで五か年の予定で計画された開削工事は、明治八年(一八七五)七月十八日から開始された。当初工事は順調に進行していったが、途中で大きな問題にぶつかった。湯本三枚橋から温泉場に至る途中の白石山の山裾を削りとる工事に当面した時にである。この山裾には古くから村人の尊敬を集めていた地蔵磨崖仏があった。
村人は工事の際、この山裾を削れば、仏の祟りがあると反対した。この時九蔵は、地蔵の地は土地の、蔵は宝蔵の蔵から来ている。この地を削ることは、この土地を繁栄させることだから祟りなどない、と地元を説得した。
五か年計画で進められた車道開削工事は、明治十三年(一八八〇)九月に完成し、湯本―小田原間にも人力車が通るようになった(板橋村より湯本村に至る車道開拓費勘定表・湯本福住家文書)。
【小田原―湯本間の道路開削】
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