江戸時代より湯本・塔之沢・堂ヶ島・底倉・木賀・芦之湯の温泉場は箱根七湯という名で呼ばれ、湯治場として多くの人たちに親しまれてきた。しかし、明治十年代に入ると、このような箱根温泉も新しいひろがりを見せはじめる。まず、明治十年(一八七七)発行の「箱根熱海温泉案内」により、明治初年代の箱根の温泉場の様子を伺ってみよう。湯宿を一等から七等までランク付けしているのも興味深い。
湯本温泉 源泉同所城山の麓、泉質鉄気を含めり
湯戸
第一等 内湯 福住九蔵
当家は石垣の三層楼にして営繕美を尽しこれを金泉楼と号し、
客の待遇尤も懇切なり、故に浴客常に絶るの日なしと
第三等 内湯 小川万右衛門
第六等 総湯 大和屋 安藤惣太郎
同 鎌倉屋 石内八重
同 小菅屋 小菅嘉兵衛
同 美濃屋 福住興五右ェ門
同 江戸家 後藤藤蔵
同 萬屋 後藤半兵衛
同 柏屋 対木平四郎
同 田中屋 田中次郎吉
第七等 同 高橋屋 古川吉兵衛
同 古川屋 古川又兵衛
同 車屋 井島重三郎
同 角屋 井島伊之右衣ヱ門
同 豆腐屋 下田半七
同 菓子屋 内田辰次郎
塔之沢温泉 源泉同所勝(馬偏に鹿)山、泉質朱砂塩気を混ず
湯戸
第二等 内湯 福住松太郎
第三等 同 元湯 中田鴨平
同 田村久兵衛
第六等 同 下ノ田村田村藤三郎
(一ノ湯 小川鎌太郎 欠落カ)
堂ヶ島温泉
夢想湯 源泉居山の麓、泉質硫鉄二気を混す
薬師湯 源泉湯主丸山孫兵衛所有地より湧出し直に浴室に用ゆ、
泉質功験共に前に同じ
神仙湯 源泉同村字谷畑、泉質功験前に同し
湯戸
第三等 内湯 近江屋 高木半兵衛
第四等 同 大和屋 大和太郎吉
第五等 同 江戸屋 島 元吉
同 丸屋 丸山孫兵衛
同 奈良屋 加藤又四郎
宮ノ下温泉
三ヶ月湯 源泉鷹巣山麓、泉質塩鉄二気を混す
熊野湯 源泉泉質功験等前に同し
麗新湯 源泉泉質功験等前に同し
瀧ノ湯 源泉泉質功験等前に同し、又宮之下総湯と称するもの之なり
吉田湯 源泉泉質功験等前に同し
湯戸
第一等 内湯 奈良屋 安藤兵冶
当家は家屋美にして湯滝あり、然るのみならず待遇又厚し、
故に外国人の寄宿尤も多しと
第二等 内湯 富士屋(藤屋)安藤勘右衛門
当家には底倉の温泉を引きて湯滝を新設したり、
故に居ながらにして二湯に試浴することを得へし
第七等 内湯 山田屋 山田千代太郎
底倉温泉
温潤湯 源泉鷹巣山麓、泉質塩鉄二気を混す
霊山湯 源泉泉質功験とも前に同し
神霊湯 源泉泉質功験とも前に同し
萬寿湯 源泉泉質功験とも前に同し
洗湯 源泉泉質功験とも前に同し
湯戸
第三等 内湯 つたや 蔦田平左衛門
当家には滝湯又蒸気湯等あり
第五等 同 仙石屋 仙石亀治郎
又滝湯あり
同 梅屋 梅村豊治
同 萬屋 安藤ふし
木賀温泉
菖蒲湯 源泉同所渓間、泉質硫黄石炭の二気を含有す
岩ノ湯 源泉泉質ともに前に同し
上ノ湯 源泉泉質ともに菖蒲湯に同し
大瀧湯 源泉泉質ともに前に同し
谷ノ湯 源泉泉質ともに前に同し
湯戸
第一等 内湯 亀屋 宮原新太郎
当家は壮宏なる三層楼にて屋内を八十三区とし浴客茲に充実して
一区をも余さず又第三の楼上には八畳の間三区ありて、其天井は
二枚の神代杉を合せしのみ、故に此楼を神代楼と号す
第三等 内湯 松坂屋 勝俣寿平治
第六等 同 宮内楼 宮内七兵衛
芦之湯僊温泉
僊(仙)液湯 泉質硫礬塩鉄の四気を混す
当温泉は村内の総湯にして湯主なし、然れども六箇の浴室何れも
清潔なり、他の総湯と異なり又別に幕湯と称する浴室四箇あり、
これは客の求めに応じて貸切りとするものなり、故に外国人は多く
この地に浴すと同所続きに源泉泉質功験とも前に同じく又其名も同し
き温泉あり、これも又村中の総湯にして持主なし
達磨湯 源泉泉質とも前に同し
これも当村の総湯にして浴室二ヶ所、幕湯一ヶ所あり
湯戸
第三等 総湯 紀ノ国屋 川部(辺)儀三郎
同 松坂屋 松坂萬右エ門
第四等 同 吉田屋 山本茂兵衛
第六等 同 大黒屋 市川浜冶
(伊勢屋勝俣清左ヱ門、亀屋安藤大三郎欠落カ)
以上が箱根七湯と呼ばれた温泉場の様子である。この案内書は当時の箱根を代表する湯宿として、湯本福住、宮之下奈良屋、木賀亀屋の三軒を第一等にランクしている。
湯本の総湯は熊野権現山と小川萬右エ門宅の間にあって、湯槽五個を備えていた。総湯の湯宿一四軒の多くは今日の民宿に相当する兼業宿で、客のたて込んだ時には貸布団を借りる宿もあったので、車屋では貸布団業も営んだ。賃料は一日上下一組一銭であったという。大和屋、美濃屋、田中屋、高橋屋、車屋、豆腐屋、菓子屋はそれぞれ大和館、住吉、翠山荘、萬寿福、河鹿荘、和泉館、うちだの前身である。当時、田中屋は現小田信湯本支店、車屋は井島酒店、豆腐屋は現吉池の玄関地先にあった。
福住の金泉楼は現存する建物で、安政六年の火災後新築、明治十年(一八七七)に完成した。当時を代表する擬洋風建築であった。塔之沢福住は明治六年、明治天皇皇后が奈良屋行幸啓の途次、御小休のため御立寄りになった宿である。宮之下奈良屋の建物は明治七年の火災後新築したもので、明治天皇皇后の行在所となった建物は、この時すでに焼失していた。木賀亀屋の神代楼については、資料なく不明である。
総湯は湯本の他宮之下、底倉、芦之湯にもあったが、芦之湯を除く他の温泉場の主な湯宿は、このころすでに内湯を備えている。『芦之湯村誌』には「全村湯宿その数六軒」とあり、江戸時代より「凡そ村内に湧出する温泉はすべて共有とす」という不文律があったから当時の総湯は湯宿六軒の共有であった。
芦之湯の総湯には幕湯と称する貸切風呂が設けられていた。明治二年芦之湯を訪れた木戸孝允や西郷隆盛、フランス人ブスケ一行もこの幕湯を貸切って入浴したのであろう。芦之湯の湯宿に内湯が設けられたのは明治十七年である。その後、松坂屋、紀伊国屋を除く四軒は明治後年代に廃絶又はその権利を譲渡して今日に至った。
また、このころの姥子温泉については、先の案内記によると
姥子ノ湯 源泉冠ヶ獄、泉質礬鉄二気を混ず
これは元箱根村の総持にして浴室三ヵ所あり、
泉期に至れば、村中年番を定めて此地の湯戸に
派出して営業をなす
とあり、姥子が箱根の温泉場に仲間入りするのは明治二十年代である。
このころ仙石原村では、仙石原裏関所定番役を勤めた石村直三郎が、関所廃止後同役の豊田虎次とともに、大涌谷より二間木管一二〇〇本をもって温泉を引き、明治三年(一八七〇)仙石原元湯場に湯治宿を開いた。明治五年元湯場の大火で焼失、石村は上湯場へ、豊田は下湯場に移って湯治宿を開くが、当時、この地は交通甚だ不便であったので、箱根の温泉場としては数えられていない。
【箱根七湯】
カテゴリー: 3.箱根七湯から十二湯へ パーマリンク