さて、長い間湯治場として栄えてきた箱根の温泉湯も、明治十年代に入り交通が便利になると、しだいに行楽化への途を歩み始めた。七湯であった温泉場も、明治から大正にかけて小涌谷、強羅、仙石原などに新しい温泉場が開発されていく。
小涌谷は古くから小地獄と呼ばれていた。七湯の枝折(文化八年・一八一一)は「底倉より芦の湯え行道の左り方より小みちを入る事凡四五丁許小地獄山の半腹に至れば爰に鼻かけ閻魔地獄観音石像あり夫より登る事二三丁地一めんに熱し厳の間より泥湯玉きりにゆる所都て一四五所中にも至てつよくにゆる所二ヵ処あり清左ヱ門ぢごくといふ其外餅や紺や酒や等の名ありて地気少しづつたがひて湧所の泥湯色異なり……」と書いてる。小地獄が小涌谷と改名されたのは、明治六年(一八七三)明治天皇が宮之下へ行幸の折、地獄というは不吉であるとの理由で、福住正兄の提案によるものであった。
小涌谷温泉の開発年代については、文献によりまちまちで、明治十一年、同十五年、同十六年の三説がある(箱根町温泉誌)。明治二十一年(一八八八)二月十七日の横浜毎日は函嶺小涌谷温泉と題し、この地を訪れた東京本郷区長、長沢正誠氏の談話を次のように報じている。
(前略)途中一老媼の話に、一昨年開けたる小涌谷温泉と云ふ鉄鉱泉ある
を聞き、試みに之に浴せり。小涌谷は宮之下より登ること十四町の処にあり、
板葺の高屋二戸相対し、繞らすに木柵を以てす。東を三河屋(榎本猪三郎)
と云ひ西を小松屋と云う。(中略)明治十一年今の小松屋の主人森田吉兵衛、
小田原駅十字町に西洋ホテルを営業せし頃、横浜山の手一二三番地、英国人
ラップラント氏を伴ひて始めて小涌谷に至り、地勢を察して開墾の企ありし
も、当時此地底倉村始め十一ヶ村の入会地なるを以って協議調はず、明治十
三年に至り、二子山の麓鷹の巣と云ふ秼場と換地の約を結び、明治十五年夏
に至り、横浜蓬来町水島周蔵、榎本猪三郎二氏の力を借り開墾に従事し、十
六年三月小田原より此の地に移り、蓬莱町の一室を引移したり(中略)遂に
十九年七月より温泉宿を営み以て今日に至り日に繁昌に赴けり。此地営業宿
二戸あり、小松屋は多く西洋人の宿たり、三河屋は邦人の宿をなす(後略)
明治十九年(一八八六)編の『日本鉱泉誌』(内務省衛生局)には小涌谷温泉の名は見えないが、明治二十年発行の『箱根温泉誌』は「近頃小涌谷に湯宿二新築造し三河屋、宝来屋という。各々西洋料理玉突等の備あれど、未だ此の湯に浴する者少し」と書き、明治二十一年発行の『箱根鉱泉誌』には「近年茲ニ温泉場ヲ開ケリ、湯亭二戸アリ、一ヲ三河屋ト云ヒ、一ヲ小松屋ト云フ、三河屋ヲ善トス、泉質不詳」と記されているから、小涌谷温泉の開発は明治十五年(一八八二)着手され、温泉宿の開設は明治十九年(一八八六)と見るのが至当であらう。小涌谷開発にたずさわった三者は、いずれも横浜蓬莱町の人で、資金の大半を榎本猪三郎が投じたことは、その後の推移を見ても明らかである。
【小涌谷温泉】
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