古くからの家業を継いだ箱根の湯宿主が近代化への脱皮に苦慮するころ、来朝する外国人憧憬の的が、豊富な温泉と富士の景観に恵まれ、しかも、東京・横浜から一日で達し得る箱根であることを早くも見抜いた青年実業家がいた。山口仙之助である。
仙之助は、神奈川県橘樹郡大根村の漢法医大浪昌随の五男として生まれたが、一〇歳の時、横浜の山口粂蔵の養子となった。明治四年(一八七一)二〇歳の時、志を抱いて渡来するも事志と違い、三年間の辛苦の末、七頭の種牛を携えて帰国した。しかし、牧畜事業は時期尚早であったので、これを断念、慶応義塾に入学したが、米国帰りのこの青年に注目した塾長の福沢諭吉は、学問を志すより実業界に入り、ひと旗挙げたほうがよいと諭した。
諭吉の勧めに従った仙之助は、外人専門ホテルの経営を志し、理想の地を箱根に求めた。明治十年(一八七七)箱根を訪れて、土地を物色、宮之下の老舗藤屋(安藤勘右衛門)を買収、同時に底倉区有温泉の使用権を獲得し、翌十一年富士屋ホテルと改称して、念願の外人専門ホテルを開業した。明治二年(一八六九)英国人シメッツが開設した横浜のクラブホテル、明治三年、東京築地に建てられた精養軒、明治六年、米国人ドクトル・ヘボンの指導で建設された日光金谷ホテルに次ぐ、我が国第四番目の外人専門ホテルであった。
創立した富士屋ホテルは、木造三階建の洋風ホテルであったが、明治十六年(一八八三)十二月、宮之下の大火で焼失、裸一貫になった仙之助は、養父山口粂蔵の融資を受け、翌十七年七月、木造平屋(客室一二室)の洋館一棟を竣工した。この建物は、外装はもちろん、寝台・調度品にいたるまで洋式にし、洋式ホテルとしての面目を一新したのである。その後二度にわたって場所を移し、大正四年には内部を大改造したが、外観だけは往時のままの面影を残し、現在も使用されている。
翌十八年には、日本館一四室のほか、食堂、酒場、調理場等の一棟を、つづいて十九年には二階建一〇室の洋館一棟を新築、さらに二十年、日本館二棟客室一五室を新築し別荘と称した(富士屋ホテル八十年史)。
このように、仙之助が苦節を乗り越えて増築を繰り返し、洋風ホテルとしての装いを整えていった蔭には、良きライバルとして、外人客獲得にしのぎを削り合った、奈良屋の存在を忘れることはできない。明治二十六年(一八九三)山口仙之助は奈良屋安藤兵冶と宿泊営業に関する契約書を交換し、以後富士屋ホテルは、宮之下を訪れる外人客を独占することができるようになった。
明治二十四年、本館の完成に当たり、仙之助は旧式燈火の火災危険を憂い、横浜バグネル・アンド・ヒル商会より四五馬力の火力発電機を買入れ、同年春、全館に点灯した。箱根山に文明の光が点った最初である。
塔之沢―宮之下間の道路開削(明治二十年)、宮之下水力電気合資会社(明治三十七年)、富士屋自動車株式会社の設立(大正三年・一九一四)、仙石原ゴルフ場の開設(大正六年)など、山口仙之助、三代目山口正造は、箱根の近代化に数々の偉大な足跡を残すが、詳しくは別項にゆずる。
【山口仙之助の富士屋ホテル創設】
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