明治十年(一八七七)発行の「箱根熱海温泉道案内」は、箱根七湯の宿料を次のように紹介している。
箱根七湯温泉旅籠中喰及賄料
一 金 二銭 一日一名分 温泉料
但シ小児ハ金一銭
一 金 一銭 同 焚出シ
一 金 一銭 同 焚出シ
一 金 三十一銭 同 上等旅籠料
一 金 十二銭五厘 同 同中喰
一 金 十九銭 同 中等旅籠料
一 金 八銭 同 同中喰
一 金 八十銭 同 外国人 上等席料
一 金 六十二銭五厘 同 同 中等同断
一 金 二円 一週間 上等一名賄料
一 金 一円五十銭 同 中等同断
但シ席価は各家差異ありと雖もこれは一週間の賄を求むる者のみ
亦九歳までの幼稚は其価の半額を以て算す
宮之下より諸方山駕籠賃
木賀 十二銭五厘 塔之沢 二十八銭 湯本 三十四銭 小田原 四十七銭
芦之湯 三十二銭 箱根 五十銭なり
一日雇切八十八銭 人足一人は駕籠一挺の半減なり
宿泊料に比べて山駕籠賃の負担はかなり重かった。
明治十年代に入ると、箱根山に外来の資本が進出する。渋沢栄一、益田孝等大財閥による耕牧舎牧場の経営と山口仙之助の宮之下進出である。
明治十一年(一八七八)宮之下の老舗藤屋を買収した山口仙之助は外人客専門の富士屋ホテルを開業した。箱根の宿主たちが近代化への脱衣に苦慮するころであった。外人客の誘致、車道の開削、発電事業、自動車事業など仙之助が箱根の近代化に尽くした功績は計り知れぬものであった。また新式の経営方針とバイタリティが土着の宿主たちに与えた影響は一通りのものでなかった。明治十六年(一八八三)宮之下の大火は、富士屋ホテル、奈良屋を灰燼に帰したが、その後再建にかかった両者の間には外人客獲得の激しい競争が展開したのである。
横浜蓬莱町の榎本猪三郎らによって小涌谷に温泉場が開発され、三河屋、小松屋が開業したのは明治十九年であった。
内務省衛生局発行の『日本温泉誌』は明治十四年から十六年に至る三か年の年間平均浴客数(投宿客数)を次のように記している。
湯本 凡そ 二一、六〇〇人
塔之沢 一八、六七七人
堂ヶ島 凡そ 一〇、〇〇〇人
宮之下 凡そ 一〇、〇〇〇人
底倉 凡そ 一三、〇〇〇人
木賀 凡そ 一三、〇〇〇人
芦之湯 凡そ 三、六〇〇人
姥子 凡そ 四、〇〇〇人
仙石原 凡そ 四、九五〇人
未だ箱根の温泉場に数えられていなかった姥子や仙石の上湯場、下湯場にも、かなりの数の湯治客があったことを知ることができる。
明治二十年(一八八七)七月、東海道線が横浜から国府津に延長、同年末に塔之沢・宮之下間に車道が開通すると、箱根の交通に人力車やチェヤーが登場する。翌二十一年には、国府津・湯本間に馬車鉄道が通じ、翌年東海道線は新橋・神戸間に全通して、上方の客を箱根に迎えることができるようになった。
交通の便がしだいによくなると、箱根の温泉場も湯治場から遊楽化の色を深めて行く。沢田武冶、沢村高俊が箱根の将来性に目をつけ、底倉蔦屋、塔之沢福住を買収して、旅館業に進出したのは明治二十三年である。
明治二十四年(一八九一)山口仙之助は、本館の新築に当たり、火力発電による電灯を富士屋ホテルの全館に点した。箱根山に出現した最初の文明の光であった。翌二十五年には、湯本、塔之沢の旅館主の合資によって、我が国二番目の水力発電所が湯場に完成し、湯本、塔之沢の温泉場に電灯が点った。
【明治初年代の宿泊料と交通費】
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