箱根温泉 箱ぴた 箱ペディア 【明治二十年代の宿泊料と交通費】

【明治二十年代の宿泊料と交通費】

 明治二十五年七月の横浜毎日新聞は避暑案内の見出しで箱根温泉の宿泊料を次のように報じている。

  湯本     三五銭  から  一円
  塔之沢    二五銭  から  七五銭
  宮之下    四〇銭  から  八〇銭
         一週間    二円五〇銭 から  五円
  底倉     三〇銭  から  七五銭
         一週間    一円八五銭 から  四円六〇銭
  小涌谷    宮之下と大差なし

 湯治客の多い宮之下から上の温泉場では一週間の料金を定めている。芦之湯松坂屋の記録によれば、明治二十六年の日本人客は平均七・八泊、外人客は四・八泊している。また滞在客のために「御伺い」という制度があった。これは料理を客の注文に応じて調進し、別に座敷料、夜具料、温泉料を合算する料金制度である。当時の料金は、座敷料一五銭より五〇銭、寝具料五銭より八銭、絹夜具二五銭、温泉料三銭、料理は一品五銭より品により定めた。
 ちなみに、明治十七年外国人によって初めて出版された、アーネスト・メイソンのガイドブックは外国人客の宿泊料金(食事付)を

  富士屋ホテル   一日        一円七四銭
           一週間      一一円五〇銭
  奈良屋      一日    一等  二円五〇銭
                 二等  二円
                 三等  一円五〇銭
           一週間   一等  一二円

と紹介している。大工・鳶の手間が一五銭、石工二五銭、土方一〇銭の時代であった。

  明治二十七年の交通費(箱根温泉案内)
  新橋―国府津  (汽車)    下等 四九銭 (中等二倍、上等三倍)
  国府津―湯本  (馬車鉄道)   上 五〇銭  中 三〇銭  下 一五銭
  湯本―塔之沢  (人力車)  一人曳 五 銭
  宮之下       〃        二七銭 (二人曳 二倍)
  底倉        〃        二七銭
  木賀        〃        三三銭
  小涌谷     (駕籠)       七〇銭
  芦之湯       〃        八〇銭
            〃        七二銭 (瀧坂経由)
  箱根町       〃      一円二〇銭 (宮之下経由)

  別に塔之沢―宮之下間の路銭
       徒歩者   一人  一銭五厘
       人力車   一人曳 三銭
             二人曳 五銭
       駕籠    一挺  三銭

明治二十六年発行の『箱根温泉誌』に載る宿名は次の二五軒である。

 (湯本)   福住、小川
 (塔之沢)  環翠楼、一の湯、福住、藤屋、玉の湯、新玉の湯
 (堂ヶ島)  大和屋、近江屋、江戸屋
 (宮之下)  奈良屋、富士屋ホテル
 (底倉)   蔦屋、梅屋、仙石屋
 (木賀)   (火災後浴舎再築するものなし)
 (小涌谷)  三河屋、開化亭
 (芦之湯)  松坂屋、紀伊国屋、亀屋、吉田屋、二子楼
 (箱根町)  はふや、石内

 木賀温泉は、明治二十五年四月の火災後未だ浴舎の再築するものなしと記している。将軍献上の湯として知られ、亀屋を筆頭に栄えた木賀温泉は、この大火を契機にしだいに衰微の途をたどった。
 明治二十年代に著しい発展を見たのは塔之沢であった。明治二十年発行の『箱根温泉誌』は
  玉の湯は掘貞蔵の持なりしが、近頃或る新聞社主譲り受けられ目下洋風の石造を新築して土地の面目を一新せり、また旧玉の湯は千歳橋の手前へ新たに二階家を新築し玉泉楼となづけり
と書いている。また明治二十三年に福住を買収した沢村高俊も早速建物を新しくした。明治以降塔之沢には、環翠楼鈴木をはじめ玉の湯、新玉の湯、福住楼の四人の新しい旅館主が進出したのである。
 天保十四年(一八四三)以来、厳しい罰則を付して自粛の申し合せをしてきた土着の宿主たちは、これら新参の宿主を仲間に入れる必要に迫られてきた。「箱根温泉宿組合」が組織されたのは明治二十九年(一八九六)である。初代行事には宮之下奈良屋、安藤兵冶、副行事に松坂萬右衛門が就任し、早速、同年九月十六日の横浜毎日新聞に広告を掲載、誘客活動を始めた。
 明治三十年代に入ると、塔之沢に芸妓の置屋が現れた。林屋という置屋に二名の芸妓が抱えられたという。
 明治三十三年(一九〇〇)三月、国府津、湯本間の馬車鉄道は電車に変わり、所要時間は五〇分に短縮された。難工事を極めた宮之下・芦之湯・箱根町間の車道が明治三十七年に開通すると、長い間箱根山の交通を担っていた山駕籠はしだいに姿を消した。
 かねてから、電話の設置を熱望して当局に働きかけた箱根の宿主たちの努力が実り、全国に先がけて、湯本、塔之沢、宮之下、底倉、小涌谷、芦之湯の温泉宿に特設電話が設けられたのは明治三十五年九月であった。

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