湯本の湯宿福住は江戸時代湯本村湯場筋の名主を務めた旧家である。福住家が湯宿商売をはじめたのは、いつごろか確かな史料はないが、少なくとも江戸初期からの湯宿であることは確かであろう。
江戸時代湯宿福住の存在が浮かびあがるのは、文化二年(一八〇五)小田原宿との一夜湯治をめぐる争論で、当主の九蔵が湯本村名主として指導的役割を果たしたこと、また二宮尊徳の高弟として知られた九蔵(正兄)は、地方文人として秀れた活躍を示し、湯宿福住には浮世絵師安藤広重・国学者間宮永好が宿泊、文化交流の輪をひろげていったことでも知られている。
安政六年(一八五九)十二月五日の湯本村の大火で、福住は土蔵のみ残し全焼した。この火災を契機に当主正兄は、自分の旅館を当時東京・横浜で盛んに建てられはじめた洋風建築の旅館として建て直すことを計画し、明治十年(一八七七)擬洋風旅館の南棟「金泉楼」を建設完成させた。更に同十二年には北棟の「万翠楼」が完成し、「営善美を尽した」(箱根熱海温泉道案内)旅館福住が、箱根温泉を訪れる湯治客の注目をあつめたのである。
擬洋風旅館として再出発、明治十年前後から福住は、木戸孝允、伊藤博文、福沢諭吉、井上馨など明治新政府の指導者、思想家が好んで滞在した。それは当主の正兄の高い見識と、幅広い交際によるところであろう。ちなみに現存する「万翠楼」の宿札は、正兄の求めに応じて木戸孝允が書いたものである。
【湯本福住】
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