明治新政府の参議の職を辞した木戸孝允が、箱根山頂の芦之湯に突然姿を現わしたのは明治二年(一八六九)八月二日であった。孝允は二七日帰京する迄松坂屋に滞在したが、この間の消息については「松菊木戸孝允公伝」に詳述されている。
八月朔日 公、諸候の版籍奉還後の施設に関し、廟議其意見の如くならざるを深憂し、是日箱根
に赴かんとして東京を発す。
八月二日 公、華と共に品川を発して神奈川に抵る。小田原に赴き、華と相別れ、芦之湯に抵
り、松坂屋に泊す。
八月五日 公始めて入湯し、更に従者福井順造、杉山孝敏を伴い山径を徘徊して自ら慰む。而し
て公は其稽留中と雖も、終始国事を深憂して須叟も忘却すること能はず。国基の確立に関して常に考
慮画策するところあり。
八月十七日 三条実美以下、公の帰京を切望す。広沢真臣、岩倉具視の意を承り是日、公の帰京
を促さしむ。
八月二十七日 公、芦之湯を発す。
松菊公伝には記されていないが、孝允が松坂屋滞在の時、密かに訪れた西郷隆盛との間に歴史的な会談が行われた。この時、南州が揮毫した漢詩は大黒屋の主人に与えられ、今も市川家に秘蔵されている。孝允もまた多くの書を松坂屋に残した。
芦之湯の温泉については、中世後期の文献にもすでに見られるが、湯治場としてにぎわいを見せ始めるのは江戸時代に入ってからである。松坂屋の祖、伊勢の国松坂の住人大南半衛門が仙石原に来住、その後勝間田清左衛門と改名して芦之湯に移り、往古「あしのうみ」とも呼ばれた芦之湯の湿原の水を蛇骨と須雲の二方に落して、干拓を完成したのは、寛文二年(一六六二)の前後であったという。
明治四年の大火で江戸時代の史料は焼失したが、明治以降の宿帳には、皇族をはじめ多くの高名の士が名を連ねている。
幕末から維新にかけて、多くの志士、高官が箱根を訪れた。そして宿の主人の請うままに書を与えたから、江戸時代からつづく古い宿屋には木戸孝允、西郷隆盛の他、勝海舟、山岡鉄舟、伊藤博文、副島種臣をはじめ多くの高名の士の遺墨が残っている。
正徳五年(一七一五)創業の芦之湯紀伊国屋や木賀亀屋、塔之沢福住などにも維新の元勲、高官が宿泊したと思われるが、史料なく本項に記載できないのは残念である。
明治九年九月一日の横浜毎日新聞は、皇后陛下宮之下奈良屋行啓の記事の中で「八月二十九日正午、木戸公が皇后宮御在所へ御伺をして参られたり、同公は先頃より湯治中にて木賀に滞在のよし」と報じているが、孝允が滞在した宿名は記していない。
名曲「箱根の山」(原題 箱根八里)を作曲した滝廉太郎は明治三十二年頃療養のため、遠縁にあたる芦之湯紀伊国屋で夏を過ごした。また黒田清輝は明治三十年九月、箱根宿鎌倉屋石内に滞在して名画「湖畔」を制作した。
【芦之湯松坂屋】
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