箱根の温泉場が近代化への道を歩みはじめた明治十一年(一八七八)宮之下に早くも写真館が店を開いた。島周吉写真館である。周吉は、堂ヶ島に江戸時代から湯宿を営む江戸屋吉五郎の二男であった。
明治の初め、江戸屋にフランス人写真家が逗留していた。景勝の場所に案内して撮影の手伝いをした周吉は、この外人の撮る写真に興味を持ち、技術を習った。その後、自ら写真師として身を立てることを決意し、横浜に出て、技術の習得に励んだ。苦労の末、写真術を修得した周吉は、明治十一年郷里宮之下に、念願の写真館を開設したのである。
同年、山口仙之助が富士屋ホテルを開業、奈良屋と合わせて宮之下に泊る外国人は急速に増えた。明治二十年には塔之沢・宮之下間の車道が開通、宮之下は箱根の中心地として発展したので、島写真館も大いに繁昌した。明治二十七年発行の『箱根温泉案内』に載る島写真館の広告には「鶏卵紙、ブロマイド紙其他アリスト紙写真大小御好ニ随ヒ撮影仕候○函山各地名勝写真販売仕候」とあり、周吉は、外国人相手の写真業のみにあき足りず、家業の暇をみて、箱根の風景、風物を撮影して、ブロマイド写真を販売した。
当時、周吉の撮った写真は、四ッ切の大きさで、原板はガラス版であった。開業当初は湿式原板で、ガラスの原版に感光液を塗り、乾ききらぬ中に撮影しなければならないという誠にやっかいなものであった。間もなく乾板を用いるようになったが、湿気が乾板をいためることに気づいた周吉は家の裏に自噴する温泉を埋め固めてしまうほどの熱の入れようだった。
大きな写真機と、重いガラスの乾板を携えて、箱根山の各所を撮影して歩いた周吉の労苦は並大抵のものでなかったろう。原板の入れ換えのために必要な移動式暗室は、人足を雇って運搬させたという。周吉が撮った一〇〇枚を越す原板は、今なお、島写真館に大切に保管されている。明治の箱根の姿を残す得難い記録である。
また二代目朝義は、関東大震災の災害の記録を数多くの写真に残した、現館主、島有義氏の御好意により、本誌には、多数の貴重な写真を掲載することができた。