明治二十年代に入ると箱根への交通はしだいに便利になった。東海道線は国府津まで延長され、国府津・湯本の間には馬車鉄道が開通し、湯本から宮之下への車道も完成したからである。温泉場も七湯に加えて、小涌谷にも温泉宿二軒が開店し、箱根を訪れる客は年ごとに増え、盛夏の季節には、全山の浴客は三〇〇〇人を越えるようになった。しかし、未だ医療の施設はなく、転地の療養者も土地の者もおおいに不便を感じていた。
これを憂えた底倉蔦屋の館主沢田武治は、温泉村村長山口仙之助と図り、医師岡島行光を村医に招いた。その後、沢田武治、山中隆千、岡島行光の三名が発起人となり、当時蔦屋の所有地であった八千代橋の際に函嶺医院を創設、明治二十五年(一八九二)七月開業した。七月十七日挙行された開院式は、三橋神奈川県参事官、佐藤横浜市長、ベルツ博士、大谷嘉平衛、茂木保平、増田増蔵、木村順吉諸氏の他、京浜及び地方の紳士七十余名の来賓を迎えて、盛大に行われたと「横浜毎日新聞」は報じている。また同紙は「該医院は規模宏壮にして早川の渓流にのぞみ明神の霊峰に対し風色秀絶にして消夏養療には最も適当せり、また院内に薬泉を引き専ら入院者に便利を與ふると云ふ」と医薬と温泉療養の併用を強調して紹介している。
開院当時の函嶺医院の入院費一日分は、食料薬価合わせて、(一等)一室一名 七拾五銭
(二等)一室二名 五拾五銭
(三等)一室三名以上 参拾五銭
また毎週金曜日には、顧問医、木村順吉医師が東京より来院して患者の診察に当たった。函嶺医院は、初代岡島行光から三代にわたり箱根の医療に貢献した。