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【小田急の乗り入れ】

 昭和二十二年(一九四七)に入ると、神奈川県の私鉄網の再編成の動きが大きく高まってきた。戦時中政府の交通統制政策により統合された私鉄各社は、「独占禁止法」の公布を契機に、統合前の企業形態に戻ろうと分離運動がはじまた。その中でも旧小田原急行鉄道の新宿支社は、この運動のリーダーシップをとり活躍した。
 七月九日には東急解体期成同盟が結成され、翌年五月に入ると、京王帝都電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄がそれぞれ分離し、新会社を発足させた。
 小田原急行鉄道は、分離独立とともに、昭和十七年(一九四二)五月以降東急傘下に入っていた箱根登山鉄道を関連会社とした。
 再発足した小田急鉄道は、特急運転に本格的な態勢をととのえ、昭和二十三年(一九四八)十月十六日から、新宿―小田原間無停車の特急電車を運転し始めた。この特急は、はじめは毎週、土・日曜日に運転していたが、翌年九月からは毎日運転となった。黄と青のツートンカラーの特急専用車は、二人分のクロスシートを採用、手洗所、喫茶サービスを備えたもので、ロマンス・カーと呼ばれ人気を博した。
 さらに同社はこの間、箱根湯本への乗入れを、立案実施していた。この小田急箱根乗入れ計画は、すでに昭和六年(一九三一)同社の前身である小田原急行鉄道と箱根登山鉄道との間で立案・協議されていたが、昭和十年代に入り戦時体制が深まるなかで両社の検討事項もそのまま棚上げになり、戦後に至ったのであった。
 小田急の箱根湯本乗入れは、両社の長年の夢の実現というだけでなく、当時の湯本町を初めとする箱根全山の町村あげての願望でもあった。乗入れ工事は、箱根登山鉄道の線路を標準軌と狭軌の三線区間とするという方法で進められた。

 昭和二十五年(一九五〇)八月一日、小田急の箱根湯本の乗入れ運行が開始された。そして翌年二月には、本格的な特急用車両一七〇〇型が登場、箱根湯本―新宿間を一時間四〇分で結ぶ特急が、一日三往復することになった。
 小田急の湯本の乗り入れ、特急運転は、箱根に向かう大都市東京の観光客の足をより便利なものとした。それはやがて訪れる戦後の大衆レジャー時代の幕あけをつげるものでもあった。

 箱根の観光業者は、小田急の乗入れに続いて国鉄の湯本乗入れも期待していた。昭和三十年(一九五五)、湯本町が中心となって“国鉄湯本乗入貫徹実行委員会”が設置され、湯本町長露木高次郎を会長として運動を開始し、同年十月には、箱根全山九〇〇〇人の署名を集め、運輸省その他関係省庁へ陳情書を提出した。
 しかし、この乗入れ実現のためには小田急電鉄の合意がなければならなかった。実行委員会もその点を重要視し、折衝したが話しあいは進展せず、幻の計画に終わった。

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