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【朝鮮戦争と箱根温泉】

 昭和二十五年(一九五〇)六月二十五日、朝鮮半島の北緯三八度線で、北朝鮮軍と韓国軍との間に戦端が開かれた。宣戦布告のないこの戦争は、やがて半島全体にひろがっていた。アメリカを中心とした国連軍は、劣勢を伝える韓国軍の全面支援に乗り出し、大量の兵士と武器が日本を経由して朝鮮半島へ送りこまれていった。
 この戦争は、ドッジ・ラインのもとデフレにあえいでいた日本経済のカンフル剤となった。戦争が始まり、国連軍が反撃に転じた八月ごろから米軍発注の特殊需要(トラック・機関車・線路資材・ドラム缶・兵器その他)の注文が日本の企業に殺到しはじめた。昭和二十五年七月から翌二十六年六月まで、その総額は三億二八九二万ドル、戦争が終結する昭和三十年(一九五五)までには一六億ドルに達した。
 この特需ブームで日本経済は活気づき、赤字にあえいでいた企業は黒字となった。日本の工業生産は、昭和二十六年には戦前の水準を超え、更に国民総生産・設備投資・個人消費も戦前の水準を突破した(『経済白書』一九五二年版)。

 朝鮮戦争は箱根温泉が復活する契機ともなった。戦争に参加した国連軍将兵は、戦時休暇で日本に帰って来ると、休暇保養地として箱根温泉へやって来た。上級将校たちは富士屋ホテルや強羅ホテルへ、一般将兵は指定旅館へ、箱根温泉は国連軍の将兵でにぎわった。

 日本の経済復興が進むなかで、一般市民の間にもレクリエーションのための旅行にでかける余裕が生まれてきた。日本交通公社は、このような時代の流れをとらえ、「父さん温泉、ぼくスキー」の標語を作り、レジャーブームをアピールした。事実箱根温泉にも昭和二十六年ごろから温泉客が増加してきた。個人やグループでの旅行はもちろんだが、目立ち始めたのは団体旅行であった。会社従業員の慰安旅行・会社の得意先の接待旅行・宗教団体の参拝旅行など、箱根温泉は各種の団体旅行の宿泊客でにぎわい始めた。

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