箱根の自然が豊かで貴重な動植物の多いことに早くから着目して、調査と研究をすすめるとともに、箱根をこよなく愛し、守ることの必要性を後進に伝えた二人の先賢を紹介してこの章を終わりたい。
沢田武太郎(明治二十九年~昭和十三年)
箱根町底倉のつたや旅館を経営するかたわら、箱根の植物の分類学的研究をした。
高等師範を出て博物学の教師であった父かず(※金偏に和)義の影響で幼時より植物に親しむようになったが、第四高等学校(金沢大学前身)在学中植物学専攻を志望東京帝国大学の植物科へ進もうとしたが、宿屋の子は宿屋を継ぐべしという父の厳命でやむなく帝大の経済学部に入学、卒業して家業を継いだ。
しかし、昭和初期の日本を代表する第一線の植物分類学者と交遊が深く、旅館経営のかたわら箱根山を中心に植物の分類や分布の研究に取り組んだ。氏が箱根で発見した新種も多く、キントキヒゴタイ、キントキシロヨメナ、ハコネアザミ、ハコネラン、ハコネメダケ等の学名には氏の姓が献名されている。仙石原の湿原植物群落の天然記念物指定にも地元で尽力している
このころの研究ノートは『沢田武太郎植物日記』(箱根町教育委員会編・沢田秀三郎解説一九七九)に詳しくまとめられており、この記録は戦後の若い後継者たちの研究と自然保護の基礎資料となっている。また植物分類学を主体とした蔵書は神奈川県立博物館にあり、「沢田文庫」として知られている。
松浦茂寿(明治三十一年~昭和三十三年)
高知県の人、高知師範卒業後東京帝大付属教員養成所で植物学を専攻、昭和二年小田原中学校に教諭として着任、以後三三年間小田中・小田高の生物教師として教鞭をとられた。
常に山に海に動植物の観察や採集に生徒を連れ出し現地で指導する教師で、今日いう野外学習、自然とのふれあいの指導の実践者であった。自然を愛し、生物を慈しみつつ野山を歩かれる後姿に生物学者の一つの典型が見られ、この人格に惹かれて若い生物好きの生徒たちが多く集まった。
昭和二十四年創立された小田原生物同好会、三十一年発足した箱根博物会はいずれも氏を生みの親とするもので、前述の門下生たちが氏亡きあとその志を継いで小田原や箱根の自然の研究をすすめつつ保護思想の普及啓蒙や実践活動に成果をあげている。